いまどき島根の歴史

第21話 峠と祈りの変遷 

久保田 一郎 専門研究員
(2022年3月6日投稿)

『出雲国風土記』に書かれた地名を地図に書き込もうとすると、「これはどこのこと??」と、しばしば立ち往生します。飯石郡と神門郡の境にある「堀坂《ほりさか》山」も難しい場所の一つです。『出雲国風土記』によれば飯石郡と神門郡を結ぶ道は2本あり、そのうちの一つが郡境の「堀坂山」を通る道であることが書かれています。

「堀坂」の地名が残ったとみられるのが県道三刀屋佐田線沿いの「宝坂《ほうさか》神社」(出雲市佐田町朝原)です。宝坂神社は現在地に移る以前は、朝原地区北端の峠であった(『神国島根』)ともいわれます。

宝坂神社御本殿 「堀坂山」が転じて「宝坂神社」と呼ぶようになった

堀坂山を「峠」と考えると、そこで何らかの祭祀《さいし》行為が行われていた時期があった可能性が考えられます。「堀坂」の他にも、出雲と備後の国境付近の道(今の赤名峠など)が「御坂《みさか》」の名で書かれていて、「峠」に相当する場所を「坂(サカ)」と呼んでいました。交通の難所であるため、道中の安全を祈る祭祀が行われる場所でした。峠は境界という性格を持ち、悪霊や疫病が村内、郡内に侵入するのを防ぐ「境界祭祀」の場となりました。

峠の道が発掘された事例では、松江市の勝負谷《しょうぶだに》遺跡(旧大庭村、佐草村の境)や布志名才ノ神《ふじなさいのかみ》遺跡(旧福富村、布志名村の境)があります。いずれも江戸時代の積石塚がみつかっています。下層からは古代にさかのぼる道路遺構が発掘されており、古くからの交通路であったことがわかる場所です。益田市の国ヶ峠《くにがとう》遺跡(旧鎌手村、木部村の境)でも、中世の道路跡や積石塚、江戸時代の石地蔵が確認されています。

益田市国ヶ峠遺跡 地蔵様が置かれていた祠《ほこら》。峠で祀《まつ》りが行われていたことが分かる(島根県埋蔵文化財調査センター提供)

宝坂神社の場合は、鎮座地が峠から村の中へ移ると、神様の性格も「行路の神」「境界の神」より「村の守り神」の性格が強くなったと思われます。同神社は明治17年に正式に朝原地区の「産土《うぶすな》大神」になりました。古い参道は尾根の南側先端から上がる道だったようで、少し痕跡が残っています。尾根の先端を削って今の県道が通るとき、古い参道の先端も切られたのでしょう。 現在は、神社の東側が入り口となり、県道から鳥居をくぐって石段を登るという形になっています。鳥居などの銘文からみると、このような整備が進んだのは大正14年~昭和4年ごろとみられます。祈りの形の移り変わりが、道一本、土地一片にも刻まれています。