いまどき島根の歴史

第23話 海を渡る石見の材木と高津川の湊

目次 謙一 専門研究員
(2022年3月20日投稿)

 

 「出雲そば」、「浜田のどんちっち」など、地域の産物は多くの人々が知るようになるとブランド化し、その地域と産物を結び付けて連想するようになります。おいしい食べ物だけに限らず、ご当地の特産品は昔からありました。

 たとえば、山がちな石見国の特産品といえる材木は、西日本各地へ運ばれ、利用されていました。鎌倉時代の1271年(文永8)、京都の高《たか》神社(京都府井手町)の建築工事用として「石見榑《いわみくれ》」が、徳島県のヒノキ材「阿波檜榑《あわひぐれ》」・近畿地方南部の「熊野木」などとともに購入されています。阿波・熊野と並んで、石見国の材木も地名を付けて呼ばれますから、石見国が材木の産地、ブランドとして知られていたことがうかがえるでしょう。

 他地域の人々が、材木を求めて石見国を訪れた例もあります。1314年(正和3)、肥前国《ひぜんのくに》櫛田《くしだ》神社(佐賀県神埼市)の関係者が、建築工事で必要な材木を須河《すかわ》(須川・津和野町)で伐採しています。それらは、高津川を利用して川下しが行われました。おそらく、材木は河口の湊《みなと》から船で積み出され、日本海を九州まで運ばれていったのでしょう。

 興味深いことに、櫛田神社周辺一帯は当時、中国大陸の宋《そう》王朝との交易拠点でした。宋王朝では森林の伐採で材木が不足していたため、交易を通じて日本の材木が大量に輸出されていたことが明らかになっています。石見国から九州へ送られた材木の中には、建築工事に使われた分だけでなく、東アジアの海を越えて遠く中国大陸へ運ばれたものがあったかもしれない。そんな可能性も考えられます。

中世中須湊想像図(イラスト・香川元太郎)益田市教育委員会提供

 一方、高津川河口近くの中須東原遺跡《なかずひがしはらいせき》(益田市)では、石が無数に並べられた礫敷き《れきじき》遺構《いこう》が発見され、船着き場や荷揚げ場といった港の施設であることが分かりました。ここへ上流から川下しした材木を引き上げ、そばで製材を行ったと考える説があります。礫敷き遺構の近くでは鉄製の道具を作っていた鍛冶《かじ》遺構が数多く見つかっていて、製材道具が必要だったこととも合致するというのです。

 かつての中須東原遺跡には、石見ブランドの材木を扱う、現代の貯木場や製材所のような場所があったのかもしれません。櫛代賀姫《くししろかひめ》神社(益田市)の展望台から同遺跡一帯を遠望するとき、日本海を行き交う船や、材木が並んだ湊の様子を思い浮かべるのも面白いでしょう。

櫛代賀姫神社(益田市)付近からみた中須東原遺跡周辺