いまどき島根の歴史

第25話 富田城下の戦争

田村 亨 研究員

(2022年4月5日投稿)

 昨今のウクライナをめぐる戦争は、SNSの普及も相まって、世界中の人々が当事者のように心を痛める問題となっています。歴史的に見れば、現在、私たちが平穏に暮らす地域も戦争と決して無縁ではありませんでした。特に16世紀、いわゆる戦国時代は、島根県域も戦禍をこうむった時代です。その最も有名な戦場の一つは、大内《おおうち》軍・毛利《もうり》軍が攻め寄せた尼子《あまご》氏の拠点・月山富田城《がっさんとだじょう》(安来市広瀬町)でしょう。

 富田城をめぐる攻防戦では、具体的にどのような場所が戦場となったのでしょうか。文献資料によれば、「菅谷口《すがたにぐち》」や「塩谷口《しおたにぐち》」・「御子守口《おこもりぐち》」など、城の入口にあたる「虎口《こぐち》」で激戦が繰り広げられているほか、当時、飯梨川《いいなしがわ》の東側にあったとされる「金尾寺《かねおじ》」(洞光寺《とうこうじ》)のあたりや、「富田城麓中須《ふもとなかす》」など、城の麓で多くの戦闘が行われたようです。

 中には、「市庭《いちば》(市場)」という場所での合戦も見えてきます。富田城の麓では、尼子氏の時代から城下町が広がっていたことが発掘調査の成果などからも確認できるので、人々の日常的な生活空間も戦火にさらされたことが想像されます。

富田城と城下(毛利軍が布陣した京羅木山方面から)

 当時の人々の暮らしと戦争の関係では、永禄《えいろく》8年(1565)に毛利軍の富田城攻めで実施された「麦薙《むぎなぎ》」が注目されます。中世史研究者の山本浩樹《やまもと ひろき》さんによる研究を参考に詳しく見てみましょう。

 麦薙とは、その言葉の通り麦を薙《な》ぎ払う行為であり(稲の場合は「稲薙《いねなぎ》」と呼びます)、毛利軍は初夏の刈り入れ時を狙って実施しています。麦は軍隊の食料(兵糧《ひょうろう》)として重要ですが、「薙捨《なぎすて》」という言葉もありますので、味方の食料確保というよりは敵方の食糧補給を断つ点が第一の意義だったのでしょう。

 しかし、この麦薙・稲薙のより大きな戦略的意義は、直接、農業生産に関わった人々の生活基盤の破壊にあるとされています。農業従事者と言うと、戦争と無関係な庶民と思われるかもしれませんが、当時の言葉で「地下人《じげにん》」(土豪《どごう》・百姓《ひゃくしょう》)と呼ばれた彼らは、武器をとって実際に戦闘に加わる存在でもありました。

 籠城《ろうじょう》戦に際しては、戦闘要員となった地下人はもちろん、その妻子ら非戦闘員も城に避難し(見方によっては人質ともとれます)、後方支援も含めて戦争に参加していたのです。毛利軍による麦薙は、実際に麦の生産に関わった籠城者たちに大きな心理的ダメージを与えたことでしょう。

 尼子軍が彼らの生活基盤を守れないとなれば、離反者も出るかもしれません。尼子軍が毛利軍による麦薙を阻止すべく富田城から出撃しているのは、以上のような事情も関わっていたのでしょう。

 戦争と人々の関係は、時代や地域によって大きく異なります。厳しい飢饉《ききん》にも見舞われた戦国時代は、食いつなぐために戦争に参加し略奪を行う人々も多く、日々の暮らしと戦争が常に隣り合わせにある過酷な時代であったといえます。

 一方で、戦争とは無縁と思われた人々が突如として攻撃の対象となり、日常生活を破壊されている現在の戦争の非情さも際立ちます。地域や時代を超えて、さまざまな戦争の実状に目を向けて理解を深めることは、私たちが戦争を乗り越えていくための大切な一歩になるはずです。