いまどき島根の歴史

第28話 神話の改変

野々村 安浩 特任研究員
(2022年4月26日投稿)

 出雲神話の中でよく知られているものに、高天原《たかまがはら》から肥《ひ》の河上の鳥髪の地に降《くだ》ったスサノオがヤマタノオロチを退治するものがあります。この神話は『古事記』(以下、『記』)や『日本書紀』(以下、『紀』)などに記されています。

 このスサノオが降った地を、『紀』は出雲国簸《ひ》の川上のほかにいくつか異なる伝えも載せています。たとえば、安芸国《あきのくに》(広島県西部)の可愛《え》の川上や新羅《しらぎ》ソシモリを経て出雲国簸の川上に、さらには出雲には降らず韓郷から紀伊国(和歌山県)を経て熊成《くまなり》峰などです。

 ところで、江戸時代後期の国学者に、『記』の注釈書『古事記伝』を著した本居宣長《もとおりのりなが》の弟子の平田篤胤《ひらたあつたね》がいます。篤胤は、『記』『紀』など多くの古典から真実の古伝を選び出したとして、『古史成文』神代部三巻を1818年に刊行しました。

 この『古史成文』ではスサノオの天降りについて、子の五十猛《いたける》神とともに新羅国ソシモリに降った後、埴《はに》の舟で出雲国安来の川上に渡り来たとあります(写真1)。そして篤胤は、『古史成文』とともに著した『古史徴』のなかで、次のように説明しています。

(写真1)『古史成文』(国立国会図書館デジタルコレクションより)

 『紀』がスサノオの渡来した地を、鳥髪としているのはオロチの退治を伝えるためであり、先に安来に到《いた》った伝えを洩《も》らしている。『紀』の異伝にみえる安芸は山陽道の安芸国ではなく安来のことだとします。その証拠として出雲国風土記(以下、風土記)の「吾御心者・・・安来也」を引用するのです(写真2)。

(写真2)出雲国風土記 意宇郡安来郷条(島根県古代文化センター)

 つまり、違う史料を組み合わせて、『紀』にない神話を作り上げたことになります。

 このほか、篤胤は大国主が根の国でスサノオの試練を経てスセリヒメを得て八十神《やそがみ》を追放する場面では、風土記の大原郡のいくつかの記事をたくみにつなぎ合わせて異なるストーリーをうみだしています(写真3)。このような改変は、ほかの箇所にもあります。

(写真3)『古史成文』(国立国会図書館デジタルコレクションより)

 篤胤の著作の背景には当時、多くの古典が写本または木版本として広がっており、その上に自身が考えた古史を描いているわけです。

 『記』のみを正しいとする宣長の流れの考えに対して、篤胤がこのようにさまざまな古典を駆使して「完全な」神話を構築しようとしました。

 近年でも異なる古典に同名神が登場する記事を部分的に引用し、例えばオロチを退治した後に、スサノオがスガの地の近くの佐世で勝利の踊りをし、熊谷でクシナダヒメが出産した(風土記)などの「唯一の正しい」神話を見いだそうとする動きもあります。

 しかし、神話とはそのようなものではなく、絶えずその時代の動きを取り入れている側面もあります。とすれば、篤胤による神話の統合化の試みも、「異端」的解釈の一つと考えることもできます。