いまどき島根の歴史

第29話 古代山陰道と謎の立石

平石 充 主席研究員
(2022年5月3日投稿)

 山陰地方という呼び名は奈良時代に全国で整備された道路、山陰道に伴う地域区分に基づいたもので現在の高速道路の名前にもそのまま引き継がれています。

 この古代の山陰道は、現代の高速道路と似た性格を持っています。それは、山を削り谷を埋め、できるだけ最短距離(直線)のルートを取ること、道幅が10㍍前後もあり、奈良時代のものと考えると、たいへん規模が大きい点です。

 写真1は、出雲市斐川町の確認されている古代山陰道の跡です。山の尾根の先端を切り通しており、現在畑になっている部分が当時の道路です。この西側では丘の上を通る道路の遺跡が発掘調査され、出雲国山陰道跡として国の史跡に指定されています。

写真1 出雲市斐川町の山陰道跡

 さて、古代道路の痕跡は完全に地面に埋もれてしまっているのでしょうか?近年、山陰で注目されるようになったものが、立石(たていし・たちいし)と呼ばれる謎の石です。

 写真2の倉庫の前に立っているのが松江市宍道町東来待に残る立石です。付近は小字《こあざ》も立石と呼ばれていますから、この石は近年のものでないことは確かで、この南側を山陰道が通っていたと推定されています。

写真2 松江市宍道町東来待の立石

 写真3は、松江市邑生《おう》町・枕木町の境付近にある立石で、この鞍部の右から左に隠岐国に向かう山陰道が通っていたと考えられています。

写真3 松江市枕木町の立石

 写真4は同じく長海《ながみ》町にある弁慶の立岩と呼ばれるもの。こちらはどっしりとしたおむすび形の石ですが、これも山陰道の推定ルート上にあります(地図参照)。今回紹介したものの他にも、浜田市や鳥取県でも古代山陰道の推定ルートの近くで立石が確認されています。

写真4 松江市長海町の弁慶の立岩
松江市枕木町周辺の古代山陰道

 これらの立石は、いつ立てられたのかがはっきり分かるものはありません。耕地整理によって、場所が少し移動したものもあるようです。しかし、写真3・4の事例のように、現代ではそこに石を立てる理由が見当たらない場所だが、古代には道路が通っていたとみられる事例がしばしばあり、立石は道路に伴う何らかの施設である可能性は高いと思われます。

 まだまだ謎の多い立石ですが、皆さんのお住まいの近くにも、まだ知られていないものがあるかも知れません。もし似たような石をご存じの場合はぜひ、古代文化センターまで御一報ください。

 現在、島根県立古代出雲歴史博物館(出雲市大社町杵築東)で古代山陰道の企画展「出雲と都を結ぶ道」を5月15日まで開催中です。