いまどき島根の歴史

第30話 石見と長門を結ぶ道ー山陰・山陽連絡路ー

橋本 剛 研究員
(2022年5月10日投稿)

 

 島根県立古代出雲歴史博物館(出雲市大社町杵築東)で、好評開催中の企画展「出雲と都を結ぶ道―古代山陰道―」の会期が終盤を迎えています。サブタイトルの「山陰道」とは都を中心に放射状に展開する駅路《えきろ》の一つで、丹波《たんば》国(京都府北部)や因幡《いなば》国(鳥取県東部)などを経由して石見《いわみ》国(島根県西部)へ至っていました。

 今回、問題にしたいのは山陰道の終着地点のその先です。『延喜式《えんぎしき》』という法令集には、駅路に等間隔で設置される駅家《うまや》(馬を乗り換えたり、宿泊したりする施設)の名前が記載されています(写真)。

(写真)『延喜式』にみえる石見国・長門国の駅家(島根県立古代出雲歴史博物館所蔵)

 これを見ると、山陰道の最後(西端)は石見国の伊甘《いかむ》駅家であることが分かります。伊甘駅家は地名などから国府付近にあったと考えられるので、石見国府が終点ということになるでしょう。そのため、国府以西に駅路は敷設されなかったというのがごくごく自然な理解です。

 ここで再度『延喜式』に注目してほしいのですが、山陽道が通る長門《ながと》国には、実に多くの駅家の記載がみられます。そしてこれらの中には、石見国へと向かう駅路上に存在した駅家が含まれている、と考えられるのです(図)。

 これに従うと、長門国から石見国へ向かう駅路が存在するにもかかわらず、反対に石見国から長門国へ向かう駅路(図の点線部)は存在しなかったとみなければなりません。

(図)山陰道・山陽道の駅路と駅家

 駅路は白村江《はくそんこう》の戦い(663年)での敗戦という対外的危機を契機に、緊急時の情報伝達システムとして整備されたものです。日本海を隔てて半島と近接する当該地域において、上記のような性格を持った駅路が部分的であれ断絶した状態にあったとは考えにくいのではないでしょうか。

 注意しなければならないのは、『延喜式』が10世紀の史料である点です。そうであれば、そこに示された状況はあくまで10世紀段階のものと考えた方がよいでしょう。私は、石見国から長門国へ向かう駅路が本来は存在し、両国は駅路で結ばれていた、と考えます。9世紀以降における交通路の再編により、石見国府以西の道は駅路ではなくなってしまったのでしょう。

 状況証拠はほかにもあります。奈良時代には特定の国司《こくし》(今の県知事)が按察使《あぜち》となり、近隣の国を監督する制度が実施されるのですが、長門国司が按察使として石見国を監督するよう命じられています。按察使は監督対象となる国を巡るよう指示されていますので、長門国と石見国の頻繁な往来が必要になるはずです。

 山陰道が通過する石見国と山陽道が通過する長門国は別の行政組織ですが、それを飛び越えた制度が実施されたのは、両者を結ぶ駅路の存在を前提にしていたからだと考えれば合点がいきます。

 今回の企画展では、こうした山陰道と山陽道を結ぶ道(連絡路)についても取り上げています。会期はいよいよ残り1週間を切り、5月15日(日)までです。まだご覧になっていない方は、古代出雲歴史博物館へお急ぎください。