いまどき島根の歴史

第33話 古墳の主が眺める先は?

久保田一郎 専門研究員
(2022年5月31日投稿)

 隠岐諸島は、東の島後《どうご》、西の島前《どうぜん》よりなります。島後は平成の大合併により隠岐の島町となりました。旧西郷町は、その中でも人口が集中する地域で、奈良時代には隠岐国府や国分寺が置かれたことが分かっています。この地域が、隠岐の中心地に成長したのはいつ頃からなのでしょうか。

 旧西郷町を流れる八尾川《やびがわ》は、流域に大きな平野が開けています。周辺は隠岐諸島でも最大の古墳集中地帯です。1988年に旧隠岐島後教育委員会の横田登さんらが行った調査によれば、隠岐で知られている前方後円墳9基のうち7基までが、八尾川流域に集中するとされています。

 古墳時代は、4~7世紀まで約400年続いているので、その中で古い方か新しい方かが次の課題となります。古墳の年代を知るには、土器や埴輪《はにわ》、副葬品などの手がかりがあれば分かりますが、そのような出土品から時期が確定できる隠岐の古墳は少数です。

 出土品が見つかっていない古墳は、地表面の観察や古墳の形で時代を推定する方法があり、前方後円墳では前方部が小さいものが古く、次第に大きくなるとされています。

左から②甲ノ原2号墳③玉若酢命神社8号墳④平神社古墳(『前方後円墳集成 中国四国編』より)
甲ノ原地域の地形(国土地理院2万5千分の1 電子地形図「西郷」)https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

 今のところ、出土品から最も古いとみられるのは①斎京谷《さいきょうたに》2号墳、これに続くのが②大座《おおざ》1号墳で、どちらも5世紀ごろです。前方後円墳の②甲ノ原《こうのはら》2号墳は古墳の形から、これらと同じくらいと考えられます。③玉若酢命《たまわかすみこと》神社8号墳はこれに次いで古く、5世紀後半~6世紀前半ごろの築造と推定されています。

 これら古い古墳が多く築かれているのは、八尾川流域でも南側の「下西《しもにし》台地」、「甲ノ原」です。台地の中でも国道沿いは周りに比べて低く、水田が広がっていますが、ここには「国府の井」(「かわ」と読むそうです)と呼ばれる湧水の言い伝えもあり、その水を利用して水田が営まれていたと考えられます。

 「古墳からどこが見えるか」は、被葬者がどこを支配していたのか?どこに関心を持っていたか?を推測する手がかりになります。甲ノ原の古墳に葬られた被葬者の場合はどうでしょうか。

 甲ノ原2号墳からは、広い平野が広がる八尾川流域を直接望むのは難しく、県道や国道沿いの小さな谷が視界に入ります。玉若酢命神社8号墳からも、隠岐の島町教育委員会の永海佐さんが指摘するように、平野全体を見渡すことは難しいのですが、海を見ることはできそうです。

 海岸沿いの尾根上にある大座1号墳は、海を強く意識しているのは間違いないでしょう。5世紀の古墳には海を意識したものが多いように思われます。古墳の近くには、海側と内陸を往き来する交通路が通っていることも注目され、今も国道が南北に走っています。

 一方、古墳時代後期、6世紀後半になると、甲ノ原から北1.5㌔のところに④平《へい》神社古墳が築かれます。隠岐地方最大の前方後円墳として知られる古墳で、八尾川流域を一望できる位置にあり「平野全体の支配者」として、ふさわしい立地といえそうです。流域の開発が奥まで進むにつれて、豪族の関心が小さな谷や海だけでなく、平野の奥にも向いた―そんな変遷があったと考えられます。