第35話 「大田」地名の由来
松尾充晶 専門研究員
(2022年6月14日投稿)
島根県大田市の「オオダ」という名は、今の大田市大田町辺りを指す平安時代の地名、「邑陀《おおた》郷」を継承したものです。古文書には「大《おお》た」と記されているので元は「オオタ」と呼ばれていたようですが、いつから、なぜそのような地名になったのかは、これまで謎とされてきました。
実は、「大田《おおた》」という地名は全国各地にあり「新たに開拓された広大な耕地」という意味で古代に名付けられたケースが多い、と言われています。ショベルカーもダンプトラックもない古代に、大掛かりな土木工事を行い、ようやく開墾できた新たな水田が「大田」と呼ばれたのです。
島根県大田市の場合も、昭和40年代以降に市街化が進むまでは、見渡す限りに水田が広がる文字通り「大田」の地でした。ここでの耕作を可能にしていたのが、三瓶川《さんべがわ》に設けられた守山堰《もりやまぜき》の存在です(図)。ここで川をせき止め、そこから水位を落とさないように水路を引くことで初めて、広大な水田を営むことができるようになりました。つまり、大田の開拓は守山堰の建設とセットで行われた、ということになるのです。
ところで大田市には立花横穴墓《たちばなよこあなぼ》という古墳時代後期(7世紀初頭)のお墓があり、そこから全体を鍍金《ときん》した大刀《たち》が出土しています。「頭椎《かぶつち》大刀」と呼ばれる、有力な豪族だけが所有できたステータスシンボルで、島根県内ではここ1カ所しかない貴重な品です。先日私は初めて、立花横穴墓を訪ねる機会を得ました。地権者であり出土時の経緯を知る俵英《たわらすぐる》さんに現地をご案内いただいて、あっと驚きました。なんと、立花横穴墓は前述の守山堰の真横に造られていたのです(写真)。現地を訪れるまで、なぜ金ピカの大刀がこのような場所から出土するのか全く理解できなかったのですが、この時、謎が解けたような気がしました。以下は想像をふくらませた私の「新説」です。
6世紀末ごろ、ヤマト王権の大王から直命を受けた立花横穴墓の豪族は、人々を率いて堰を建設し水路を引く大工事を敢行しました。三瓶川は暴れ川でたいへん困難な事業でしたが、これによってそれまで水が引けなかった台地上に広大な田んぼを作り出すことに成功したのです。この耕地一帯はこの時、誇りを込めて「大田」と呼ばれるようになりました。これを指揮した豪族は死後、開拓の記念碑である守山堰の横に、金ピカに輝く大刀と共に葬られたのです…
いかがでしょうか。身近な地名には起源不明なものが多いのですが、調べてみると、このような歴史物語が秘められているかもしれません。