いまどき島根の歴史

第36話 鉄製釣燈籠奉納

目次謙一 専門研究員
(2022年6月21日投稿)

 かつて、たたら製鉄が盛んだった出雲地域。鉄の原料である砂鉄が採取された跡地の多くは棚田に生まれ変わっており、今の季節はさわやかな初夏の水田風景が広がっています。たたら製鉄で生産された鉄は、一部が各地の鋳物師《いもじ》のもとに流れ、鋳物の原料となりました。出雲地域では、宇波《うなみ》(安来市広瀬町)の鋳物師が室町代から活動を始めたと伝えられています。

 その初期の作品の一つが、巖倉寺《いわくらじ》(安来市広瀬町)の鉄製釣燈籠《てつせいつりどうろう》です。高さは約20㌢で、丸い笠と台の間に明かりをともす火袋《ひぶくろ》があり、その周囲3方向に銘文を刻んだ長方形の柱と火口《ひぐち》があります。

 銘文には天正20年(1592)2月という年月とともに「宇波大工賀藤善兵衛《かとうぜんべえ》作」、「二宮兵介源長正《にのみやへいすけみなもとのながまさ》寄進」などと記されています。宇波鋳物師の一人賀藤善兵衛が制作したこの燈籠を、出雲国富田《とだ》城(安来市広瀬町)の城主吉川広家《きっかわひろいえ》の家臣二宮長正が巖倉寺へ奉納したことがわかります。

「燈籠」巖倉寺鉄製釣燈籠

 二宮氏は以前から鉄生産との関わりがありました。長正の祖父二宮経実《つねざね》は、戦国時代の天文6年(1537)、安芸国山県郡重宗(広島県北広島町)の「たたら山」を支配しており、仕えていた吉川氏に対し、「たたら山」からの収益である鉄を税として納めたとみられます。

 そして、天正19年(1591)に吉川広家が富田城に移る前に長正が治めていた領地の一つは、鉄の生産地帯であった、石見国那賀郡の小篠《おざさ》・七条(浜田市金城町)でした。那賀郡の山間地域では鎌倉時代から砂鉄採取が行われており、小篠・七条一帯には、製鉄遺跡が分布しているのです。長正もまた、自身の領地で盛んだった鉄生産に関わった可能性が考えられます。

 この視点で、燈籠の銘文をとらえ直してみましょう。二宮長正は、祖父の代から続く鉄生産との関わりを出雲地域でも活《い》かして、宇波鋳物師・賀藤善兵衛と親密な関係を結んだと考えられます。その結果、この燈籠が制作されたと推測できます。そもそも、吉川広家は家臣長正の鉄生産との関わりを承知のうえで、宇波鋳物師掌握を狙って関係を結ばせたのかもしれません。長正と鋳物師の関係を踏まえると、燈籠の銘文からは「餅は餅屋」や「適材適所」という言葉を連想しますが、みなさんはいかがでしょうか。

関係地名位置図(地理院地図を利用)