第6話 お米と弥生人の心
岩本真実 特任研究員
(2021年11月7日投稿)
島根県立古代出雲歴史博物館では、2500年以上前に米づくりをはじめた頃の山陰の様子を紹介する企画展「COME on 山陰弥生ライフ 米作り、はじめました。」を開催しています[会期:2021年9月17日(金)~11月14日(日)]。
この企画展のため、縄文土器や弥生土器に残された穀物などの痕跡を探す調査を3年間行いました。土器は粘土でできているので、焼いて仕上げるまでは柔らかい状態です。そこに付いたり混ざったりした植物の種実などは焼成時に焼失しても小さな孔となって残ります。その孔の形から種実の種類を調べるのです。1.4トンもの土器を調査した結果、縄文時代のイネ、アワ、キビといった穀物や、ダイズ、アズキ亜属といったマメ類を確認できました。縄文時代にはわずかであったイネが、弥生時代になると格段に増加することも分かりました。
そのような調査のなかで、とても変わった壺《つぼ》が1点ありました。土器に残るイネの痕跡はどれも籾殻の付いた状態(ここではイネと呼びます)です。ところが、松江市にある北講武氏元《きたこうぶうじもと》遺跡の壺では脱穀した状態(ここではコメと呼びます)だったのです。しかもその数20カ所。調査した土器は小片も多いのですが、完全な形で残る土器や大部分が残る土器でもここまで多くの種実はみつかっていません。この壺は一つの土器に混ざった粒の数でも他の土器とは全く違います。
イネの痕跡が残る土器は数多く発見されているので、土器づくりの場とイネの置き場は近かったのかもしれません。一方、コメの跡が残る土器は1点だけなので、脱穀以降の作業は土器づくりと離れた場であったか短期間であったのではないでしょうか。
それでもなお北講武氏元遺跡の壺にコメの跡が20カ所も残っていたのは何故でしょう。ただの偶然かもしれません。けれども、米づくりをはじめたとはいえ、アワやキビなどにも頼って災害などに備え、試行錯誤しながら米づくりをしていたと思われる弥生時代。せっかく脱穀したコメを食べずに土器に多量に混ぜ込んだとすれば、何か特別な意味があったように思えます。全国的にみると、マメやエゴマなど特定の種実が多量に混ざった土器がみつかっており、豊饒《ほうじょう》への祈りが込められていると考える研究者もいます。モノを研究対象とする考古学では人の心を探ることは難しいのですが、豊作を祈った弥生人の心がこの壺に表れているように思えてなりません。 新米の美味しいこの季節、企画展をきっかけに、現代の私たちにつながる米づくりを始めた昔の人々の心を想像してみてはいかがでしょうか。