第10話 隠岐守・越智貞原
久保田一郎 専門研究員
(2021年12月5日投稿)
9世紀後半は、占い(陰陽道《おんみょうどう》)が貴族の生活や政治に影響を与えた時代です。歴史書にも占いの記事が多くなりますが、865年(貞観7)から、「戦が起こる」という予言が目立ちます。翌年4月には内裏の応天門が焼ける、有名な「応天門の変」が起こります。この時点では放火と決まっていたわけではありませんでしたが、占いの結果は、「外国が攻めてくる兆《きざ》し」と出ました。
そのため、隣国・新羅《しらぎ》への敵意・警戒感が急激に強まり、新羅との関係があった者が危険視されることになりました。7月には、肥前国(佐賀県・長崎県)の郡司たちが「新羅とつながっている」と密告される事件が発生しています。
同じ年、隠岐国司(知事に相当)だった越智貞原《おちのさだはら》も、新羅と結んでの国への反逆を疑われています。彼が疑いをかけられたのは、長年外国と関わる場で仕事をしてきた官人だったためでした。彼は838年(承和5)の遣唐使(結果的に最後の遣唐使になりました)で書記官として中国へ渡りました。
同じ遣唐使船には、中国の進んだ仏教を学ぼうとする留学僧も乗り込んでいました。後に天台宗の名僧として知られる円仁《えんにん》はその一人で、彼が書き残した日記のおかげで遣唐使一行や、越智貞原の活動が詳しく分かります。
この時期は貴族たちが中国文化に熱狂し、中国からの貴重な舶来品を争って求めていた時代です。遣唐使としても貴重品の購入が大事な使命の一つであり、今でいう爆買いツアーでもあったようです。839年2月、当時貿易で栄えていた揚州に滞在していた遣唐使船の乗員たちは、市場へ出かけては日本へ持ち帰る物を買っており、中国の禁制品を持ち出そうとする者までいました。越智貞原も市場で買い物をしたところ、唐の役人から州役所へ通報されています。
越智貞原は、帰国すると日本の外国貿易を管理する大宰府の役人になります。853年(仁寿3)2月に中国へ渡る僧(円珍)にパスポートを発給し、サインしたのも彼でした。当時、最も国際的な活動をしていた僧侶との関係を保つことで、彼は帰国後、朝鮮半島や中国の情報に通じていたと思われます。
国司として赴任した隠岐もまた、彼にとっては経験の生きる仕事場であったにちがいありません。隠岐周辺の海には新羅や渤海《ぼっかい》の(非公認の)貿易船が行き交い、宇賀《うか》の比奈麻治比売命《ひなまじひめみこと》神社の灯り《あかり》はそのような船の航海の目印になったともいわれます(田中史生説)。 しかし、中国や大宰府交易で活躍してきた華やかな経歴、新羅人とのつながりは、866年(貞観8)からは一転して、国への反逆を疑われる原因になってしまいました。この件では「密告はぬれぎぬ」ということになりましたが、別件で流罪になっています。手のひら返しの扱いを受けた貞原は、国の政策に振り回された口惜しい思いを抱いたにちがいありません。