いまどき島根の歴史

第11話 戦前の駆け足修学旅行

面坪紀久 特任研究員
(2021年12月12日投稿)

近頃よく、松江の町を走る修学旅行のバスを見掛けるようになりました。肌を刺す冬風の中を足取り軽く過ぎていく子供たちの姿に、少しずつではありますが、いよいよ日常が戻りつつあることを実感します。

今回取り上げるのは、そんな修学旅行にまつわるお話です。以前、ある女学生が記した明治36年(1903)の修学旅行日記を取り上げました。それは、前年に開通したばかりの山陰線(現在のJR山陰線の一部)で行く、新時代の到来を予感させる旅でもありました。

それ以前の修学旅行と言えば、身体鍛錬を目的とする行軍型の旅行が一般的で、軍事教練や兵式体操を伴う軍事色の強いものでした。もちろん、中には京阪神方面への旅行を行う学校がないわけではありませんでしたが、その場合は、難所で知られる四十曲峠《しじゅうまがりとうげ》 (岡山県新庄村と鳥取県日野町との県境)を約2日かけて徒歩で越える、過酷な旅でもありました。

鉄道開通は往路にかかる時間を格段に短縮させただけでなく、これまでは身体的負担から主に師範学校や中等教育機関に通う男子生徒が対象であった県外旅行を、女学生や幼年の子供たちにも可能にさせたのです。

大正時代に至ると、当初の行軍的な要素は一層弱まり、博覧会や博物館をはじめとする近代技術に接触することを目的とした「修学」に力点が置かれるようになりました。

島根県立工業学校修道館の旅程表
(昭和8年10月18日~30日)

さらに、日清・日露戦争以降は国家主義的教育との結び付きを強め、皇室の聖地を巡る聖地巡礼型の修学旅行が奨励されました。「伊勢参宮」という非日常的な体験を共有することで、社会的な連帯感や国体意識を醸成《じょうせい》する。修学旅行は次第に、子供たちの「忠君愛国精神を涵養《かんよう》する場」としても利用されるようになっていったのです。

さて、県内には多くの修学旅行日記が残っていますが、今回は、昭和8年(1933)に島根県立工業学校修道館(現松江工業高等学校)で実施された修学旅行を見てみましょう。神戸・大阪・奈良・伊勢・鎌倉・東京・日光・京都を、約13日間かけて駆け足で巡る、周遊型の大規模なもので、見学時間を十分に確保するべく移動は主に夜行列車を利用して行われました。

見学先を見てみると、伊勢神宮をはじめとした皇室ゆかりの地を中心に、50カ所以上を巡る超過密な旅程であることが分かります。このような旅行は、決して当校に限ったものではなく、尋常小学校から女学校に至るまで、当時よく見られた修学旅行の在り方でした。

このように、修学旅行はその時々の社会情勢を如実に反映しながら、さまざまに展開していきました。とはいえ、そんな最中においても、学友たちと寝食や楽しみを共にするこの機会が、彼らにとって最大の楽しみであったことに変わりはありません。 コロナ禍の終息が見えない中、いまだ制約も多い修学旅行ではありますが、島根を訪れる学生たちにとってこの経験が素晴らしい思い出となることを願います。

昭和5年の京阪修学旅行記念写真「嵐山にて」。背後には渡月橋(個人蔵)