いまどき島根の歴史

第12話 日本海を介して運ばれた焼き物

廣江耕史 特任研究員
(2021年12月19日投稿)

安来市広瀬町の月山富田城の西側に広がる城下町は、寛文6年(1666)に飯梨川の洪水により埋もれてしまいました。1981年に河川改修に伴い、富田川河床遺跡として発掘調査が行われ、城下町が発見されました。

写真の焼き物は備前焼の大甕《おおがめ》で、戦国時代(16世紀後半)のものです。掘立柱建物跡の土間に6個が埋っていました。用途は分かりませんが、酒、みそなどの食料や染色に用いる藍甕《あいがめ》としての貯蔵用に使われたものと思われます。甕の肩に「貳石入《にこくいり》」と線刻が見られます。二石は容量が360リットルでポリタンク18個分の容量があります。甕の大きさは、口径58㎝、高さ88㎝、重量が60㎏と大きなものです。

富田川河床遺跡から出土した備前焼の大甕

備前焼は、岡山県備前市にある中世六古窯の一つで現在も操業され、全国的にも有名な窯元です。古墳時代以来の須恵器の製法が平安時代に変化し生産が始まり、中世の鎌倉時代に壺《つぼ》・甕・擂鉢《すりばち》が作られ、西日本一円に流通するようになります。生産地は、皇室領の荘園香登《かがと》荘のあった備前市伊部《いんべ》周辺です。山陽、四国、山陰の出雲、西伯地域の方言で、すり鉢のことを「かがつ(ち)」と呼んでいるのは、生産地の地名に由来する可能性があります。島根県・鳥取県においては、13世紀から14世紀前葉にかけて限定的な遺跡から少量の出土ですが、南北朝の14世紀から室町時代15世紀にかけて出土数、遺跡数ともに拡大していきます。写真のような大型の焼き物は、瀬戸内海に面した備前の地からどのようにして運ばれたのでしょうか。古代以降の瀬戸内海は、京都と博多、太宰府を結ぶ水運(船による輸送)が発達しました。中世には中国からの輸入陶磁器が博多経由で京都に運ばれ、備前焼は中国、四国地方の瀬戸内沿岸に運ばれています。

文献により、備前焼が船で運ばれたことが分かるのが「兵庫北関入舩納帳《ひょうごきたせきいりふねのうちょう》」です。兵庫県の港に入る船の荷物と数量を記録したもので、1445年8月26日に入港した船の積荷について「伊部 ツホ大小六十 百六十文」と書かれています。伊部とは備前焼の窯のある場所の地名でツホとは壺のことです。大甕に限らず、擂鉢も数が多くなればかなりの重量となり、陸路ではなく水路を使うことで荷物を大量に運んでいたようです。山陰で出土する備前焼は瀬戸内海から関門海峡を経由して、「美保関」を中継地として運ばれるルートが考えられます。

 律令時代の交通は陸路中心で、瀬戸内地域では8世紀半ばに官物の輸送が始まりました。中世には、京都・奈良の荘園領主に運ばれる年貢《ねんぐ》などが海上輸送されました。山陰沿岸部では、若狭小浜を経由して琵琶湖から京都へのルートで荘園年貢が運ばれるようになります。福井県の中世窯である越前焼の製品が山陰地域でもみられ、これらは日本海を西に向かう船でもたらされました。中世の水運利用は、焼き物に限らず、木材や石塔などの重量物も運搬するなど流通経済の進展に大きな影響を与えました。 古代においては陸路が中心であったのが、中世に水運が加わることで大量輸送が可能となり、物資の輸送に大きな変化が生じたと考えられます。富田川河床遺跡の甕は、当時盛んであった日本海交通を象徴するものなのです。

中世の西日本の港と物資の流れ