第13話 大念寺古墳の発見
角田徳幸 古代文化センター長
(2021年12月26日投稿)
JR出雲市駅にほど近い大念寺には、本堂の裏手に巨大な横穴式石室をもつ古墳があります。この大念寺古墳は、出雲最大の前方後円墳で、古墳時代後期(6世紀後半)に現在の出雲市を中心とした地域に勢力を誇った有力豪族が築いたものです。古墳の発見は古く、江戸時代、文政9年(1826)2月にさかのぼります。火災に遭った本堂を再建する際、南側に敷地を拡張したところ、横穴式石室の一部が露出したのです。古墳は世間の耳目を集めるところとなり、同年8月には木版刷りの『岩家図幷寸法実物目録《いわやずならびにすんぽうじつぶつもくろく》』が出されました。また、横穴式石室の内部を描いた『今市大念寺洞中細見之図《いまいちだいねんじどうちゅうほそみのず》』のほか、副葬品を記録した『雲州神門郡今市大念寺堀山而所獲之神器之図《うんしゅうかんどぐんいまいちだいねんじほりやましこうしてとるところのしんきのず》』が天保4年(1833)に作られており、人々が高い関心を寄せていたことがうかがえます。
このうち、『今市大念寺洞中細見之図』には、横穴式石室の奥壁に近い壁面の上部に「窓」があり、「此《この》所ノ石ヲ取ノケ初テ穴ヲ見出ス」と書かれています。石室は、その入口である羨道《せんどう》が開口したのではなく、奥壁近くの高い位置にある石材が取り外されたことで見つかったのです。
大正時代に調査した野津左馬之助《のつさまのすけ》(島根県史編纂《へんさん》委員)は、大念寺古墳が前方後円墳であることは「後円部の丘斜面及び堂宇建設の為めに削り去られたる切岸面の土層状況よりて明なり」と述べています。つまり、墳丘の中心線に沿うように盛土が削り取られた結果、石室の奥壁側が露出することとなり、その崖面では、後円部に前方部が接続する前方後円墳の特色を長らく見ることができたようなのです。
本堂の裏に露出した崖面(古墳の縦断面)は、風雨にさらされ、土砂崩れを起こすようになりました。1964年には石室奥壁上部の石材までが脱落し、擁壁と石室の補修工事が行われています。80年代に入ると、古墳がさらに崩壊する懸念が生じたため、本格的な保存修理工事が実施されました。この工事に先立つ85年の発掘では、古墳の縦断面にあたる崖面を調査し、墳丘は①横穴式石室の構築に伴う盛土②後円部の盛土③前方部の盛土の順に築造されていることが判明しています。 大念寺古墳は、江戸時代の人々が残した記録から、発見時の状況を知ることができます。また、墳丘は約半分が損なわれていますが、ほとんど解明されていない大型古墳の築造工程がわかる数少ない古墳なのです。